「大宅壮一」を編集中

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1918年(大正7年)7月、父親が[[胃がん]]のため死去。同年11月、18歳(4年生)の時、[[米騒動]]に際して米騒動を煽動するような演説をおこない、大阪・茨木中学を諭旨退学となった。
 
1918年(大正7年)7月、父親が[[胃がん]]のため死去。同年11月、18歳(4年生)の時、[[米騒動]]に際して米騒動を煽動するような演説をおこない、大阪・茨木中学を諭旨退学となった。
  
1919年(大正8年)、[[徳島中学]]で[[専門学校入学者検定試験]](専検)を受け、100人中ただ一人合格し、旧制高等学校入学資格を得る。同年9月、[[第三高等学校]](現・京都大学教養部)文科乙類に入学する。父を失い兵役にある兄に代わり家業を手伝うため、京都の吉田までは実家から汽車で通った。登校途中の汽車内で、同じく大阪の実家から病気のために汽車通学をする[[梶井基次郎]]と出会った。大宅は梶井と仲良くなり文学や恋愛を語り合った。また大宅と同じクラスであり、梶井とは寮で同室だった中谷孝雄が二人の友として加わった。
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1919年(大正8年)、[[徳島中学]]で[[専門学校入学者検定試験]](専検)を受け、100人中ただ一人合格し、旧制高等学校入学資格を得る。同年9月、[[第三高等学校]](現・京都大学教養部)文科乙類に入学する。
  
1922年(大正11年)3月、第三高等学校を卒業する。三高卒業と同時に最初の妻である[[山本和子]]と結婚する。山本和子は[[大川光三]]より紹介された加島銀行員であった。同年4月に[[東京帝国大学]](現・東京大学)文学部教育学科に入学するが、すぐ社会学科に転学する。東大「[[新人会]]」に入る。大学1年の時に妻和子を東京へ呼び、下落合に間借りする。
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1922年(大正11年)3月、第三高等学校を卒業する。三高卒業と同時に最初の妻である[[山本和子]]と結婚する。山本和子は[[大川光三]]より紹介された加島銀行員であった。同年4月に[[東京帝国大学]](現・東京大学)文学部教育学科に入学するが、すぐ社会学科に転学する。東大「[[新人会]]」に入る。
  
1923年、東大通学の傍ら、生活費のため下谷の[[岩倉鉄道学校]]の英語講師となる。同年9月に[[関東大震災]]で学校自体が消失し休校となり失業する。戯曲「まずしければ」を『[[文芸時代]]』に発表する。
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1923年、東大通学の傍ら生活費のため、[[岩倉鉄道学校]]の英語講師となる。同年9月に[[関東大震災]]で学校自体が消失し休校となり失業する。戯曲「まずしければ」を『[[文芸時代]]』に発表する。
 
賀川豊彦らの影響をうけ,[[日本フェビアン協会]]創立に参加した。参加者には[[川原次吉郎]]、[[宮崎龍介]]、[[木村毅]]、[[秋田雨雀]]、大宅壮一、[[安部磯雄]]、[[松永義雄]]、[[山崎今朝弥]]、[[富士辰馬]]等がいた。「一年もたたずに姿を消してしまった」とウィキペディアにあるが、これは誤りである。日本フェビアン協会の活動を通じて出会った[[近藤愛子]]と親しくなると妻和子も浮気したため離婚となる。近藤愛子と再婚したが後に結核で亡くなった。
 
賀川豊彦らの影響をうけ,[[日本フェビアン協会]]創立に参加した。参加者には[[川原次吉郎]]、[[宮崎龍介]]、[[木村毅]]、[[秋田雨雀]]、大宅壮一、[[安部磯雄]]、[[松永義雄]]、[[山崎今朝弥]]、[[富士辰馬]]等がいた。「一年もたたずに姿を消してしまった」とウィキペディアにあるが、これは誤りである。日本フェビアン協会の活動を通じて出会った[[近藤愛子]]と親しくなると妻和子も浮気したため離婚となる。近藤愛子と再婚したが後に結核で亡くなった。
  
1925年、[[新潮社]]の嘱託となり、『社会問題講座』(全13巻)の編集に携わる。東京大学3年生に4年間籍を置いたが退学した。大宅は「ほとんど学校に出ず、授業料も納めなかったら、いつのまにか除籍されてしまった」と回想する(『大宅壮一自伝』)。
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1925年、[[新潮社]]の嘱託となり、『社会問題講座』(全13巻)の編集に携わる。東京大学3年生に4年間籍を置いたが退学した。
  
 
1926年1月、雑誌『[[新潮]]』巻頭「新潮評論」を無署名で執筆する。同年12月号に「文壇ギルドの解体」を昭和元年署名入りで発表し、文筆活動に入る。当初は「左翼のパリパリの評論家」としてしられていた。『赤い星』(翻訳、新潮社)を刊行した。
 
1926年1月、雑誌『[[新潮]]』巻頭「新潮評論」を無署名で執筆する。同年12月号に「文壇ギルドの解体」を昭和元年署名入りで発表し、文筆活動に入る。当初は「左翼のパリパリの評論家」としてしられていた。『赤い星』(翻訳、新潮社)を刊行した。
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1934年、[[東京日日新聞社]]、[[大阪毎日新聞]]の社友となる。このころから海外に旅行するようになり、1935年7月、[[朝鮮]]、[[満州]]、[[香港]]に旅行し。翌年の
 
1934年、[[東京日日新聞社]]、[[大阪毎日新聞]]の社友となる。このころから海外に旅行するようになり、1935年7月、[[朝鮮]]、[[満州]]、[[香港]]に旅行し。翌年の
1936年9月は[[南洋諸島]]に旅行した。その翌年の1937年には[[毎日新聞社]]の従軍記者として、[[上海]]、香港、[[北京]]、[[徐州]]、[[南京]]、[[広東]]などを回った。1937年(昭和12年)の南京攻略戦では現地を取材しており、南京事件については規模に議論があるとした上で、日本軍による虐殺の存在自体には肯定的証言をしている。
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1936年9月は[[南洋諸島]]に旅行した。その翌年の1937年には[[毎日新聞社]]の従軍記者として、[[上海]]、香港、[[北京]]、[[徐州]]、[[南京]]、[[広東]]などを回った。
  
 
1939年5月、[[理研映画]]常務取締役製作部長に就任したが、1941年8月に取締役製作部長を辞任した。
 
1939年5月、[[理研映画]]常務取締役製作部長に就任したが、1941年8月に取締役製作部長を辞任した。
1941年11月、今村均中将を軍司令官とするジャワ方面軍である第十六軍の宣伝文化部隊に徴用された。大宅を推薦したのは『陸軍画報』社長の中山正男である。同じ班には詩人の大木惇夫や漫画家の[[横山隆一]]がいた。その後、大木はこの時の経験を基に詩集「海原にありて歌へる」を出版し、その際に大宅は跋文で「戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である」と書いた。
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1941年11月、今村均中将を軍司令官とするジャワ方面軍である第十六軍の宣伝文化部隊に徴用された。大宅を推薦したのは『陸軍画報』社長の中山正男である。
 
1942年1月、[[ジャワ作戦]]に参加するも、乗っていた輸送船が撃沈される。
 
1942年1月、[[ジャワ作戦]]に参加するも、乗っていた輸送船が撃沈される。
 
1943年4月に設立された啓民文化指導所の総務に就任した。日本占領下のジャワで発行された雑誌『ジャワ・バル』第9号(1943年5月,[復刻版,龍渓書舎,1992年])で,大宅は「啓民文化指導所本部及び映画部指導委員」として紹介されている。このころ「「こんなことをやっていては,日本人は世界中から嫌われる。戦争を早く終結すべきだ」などと,軍に楯をついて,ついには憲兵から危険人物視されるようになった(半藤一利(2006)『恋の手紙 愛の手紙』文春新書)。
 
1943年4月に設立された啓民文化指導所の総務に就任した。日本占領下のジャワで発行された雑誌『ジャワ・バル』第9号(1943年5月,[復刻版,龍渓書舎,1992年])で,大宅は「啓民文化指導所本部及び映画部指導委員」として紹介されている。このころ「「こんなことをやっていては,日本人は世界中から嫌われる。戦争を早く終結すべきだ」などと,軍に楯をついて,ついには憲兵から危険人物視されるようになった(半藤一利(2006)『恋の手紙 愛の手紙』文春新書)。
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1944年、東京・[[世田谷区|世田谷]]の[[八幡山]]で自給自足の農耕生活に入る。大宅昌は「私は、農業をするために嫁いだわけではありません」と断固反対して、大宅壮一の評論家としての戦後の活動を支えた。
 
1944年、東京・[[世田谷区|世田谷]]の[[八幡山]]で自給自足の農耕生活に入る。大宅昌は「私は、農業をするために嫁いだわけではありません」と断固反対して、大宅壮一の評論家としての戦後の活動を支えた。
  
1945年9月、株式会社[[トッパン]]の顧問となる。1947年、『改造』12月号に「亡命知識人論」を発表する。この中で大宅壮一は「今後も政治的にはまったく「自由」な立場で,発言し行動したいと思っている。それを第三者が何と批評しようと,もちろんそれは勝手である」と述べている。
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1945年9月、株式会社[[トッパン]]の顧問となる。1947年、『改造』12月号に「亡命知識人論」を発表する。この中で大宅壮一は「「今後も政治的にはまったく「自由」な立場で,発言し行動したいと思っている。それを第三者が何と批評しようと,もちろんそれは勝手である」と述べている。
  
 
1950年頃から本格的に[[ジャーナリズム]]で活躍。1950年に刊行された「『人間裸像』に収録された文章の初出を調査したところ,15 本中9本が「猿取哲」名で発表されたものであった」と井川充雄は述べる(井川充雄 (2013)「占領期のメディアと文化人」春季研究発表会ワークショップ報告,マス・コミュニケーション研究, 82 巻)。
 
1950年頃から本格的に[[ジャーナリズム]]で活躍。1950年に刊行された「『人間裸像』に収録された文章の初出を調査したところ,15 本中9本が「猿取哲」名で発表されたものであった」と井川充雄は述べる(井川充雄 (2013)「占領期のメディアと文化人」春季研究発表会ワークショップ報告,マス・コミュニケーション研究, 82 巻)。

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